昭和45年8月1日 月次祭



七月の、おー、修行月に引き続きまして、願い月といわれる八月の月に入らせて頂いた。暑さはまだ、いよいよもう、暦の上では秋の季節だそうですけれども、まだまだ、暑さは当分続くことでございましょう。えー、皆さん、どうでしょうか。七月の、おー、願い、修行月、祈念力を作ると。それこそ、おー、枯れ木もおー、生きる。えー、生きた木でも、願い、祈念力によって枯らすと、言われる程しのことが、祈念ということで出来るんですね。祈りによって、助けることが出来るなら、祈りによって殺すことも出来るというのが、祈念力を得た人の、おー、祈念の実態でしょうかね。祈念というのは、そのようにある。それを一生懸命修行して、その祈念力を作った。そして、願い月に入った。ところが、お互い、どうでしょうか。願うこともない。たいして、こう取り上げてから、御願いせんならんということもない。ね。願うということは、そら、色々ある。今日も一日無事で、えー、商売が繁盛いたしまして、家族一同、無事息災でと、まあ、言うならね、願いは沢山あるけれども、これといって、修行でもしてから願わんならんという程しの願いを、お互いが、持たないというようなことはないだろうか。折角の願い月と氏子が言うておるのでございますから、神様も、願われようと、いうなら、はまってござるに違いはない。(えっへ)ですから、その神様が、あー、受けて下さろうとする、私共の願いをです。ね。願わなければいけんのです。けれども、願うと言うても、さあ、何を願って良いやら分からない。皆さん、どうでしょうか。願い月に入って、いよいよ、八月の二十日は大祈願祭。ね。祈願、普通の祈願祭に大の字がついておる。これは、普通の教会では、一日が、必ず祈願祭と申します。ここで、十日に行われます、月次祭を、教祖月次祭と申します。えー、ここで、十八日に仕えますのを、いわば、報徳祭という。四神様、三代金光様のお祭りとされております。それで、二十三日につか、あー、奉仕されます月次祭を天地金の神様のごだい、あー、お月次祭と、いうなら、銘打っての、それぞれの月次祭ですけれども、これは、私の、生き方って言おうか、私の信条が、そう、わざわざ別にせんでも良いと。何時もが、月次祭だと。四回ながら、月次祭だから、その月次祭には、お互いが日頃願いを立てておるのです。また、おかげを蒙っておるのですから、その、せめて、信心の稽古に、日々、通うておる御礼に、えー、ま、一週間に一辺ぐらいの割合で、えー、取り束ねて、神様に、お供えの一つもさせて頂いて、御礼を申し上げようというお祭り。性格がそういうことになっておりますから、皆様も、ご承知でない方が多いくらいでしょう。ね。また、それで良いと私は思うんですよね、実際は。ところがその、大祭はやはり、それぞれの性格が打ち出されとりますよね。四月の大祭は、あー、天地金の神様の御大祭。十月の大祭は、教祖大祭。ね。金光大神祭りとしての御大祭、ね。いわゆる、十二月のお祭りは報徳祭。いわゆる、四神金光様、三代金光様の、いわゆるお徳に報い祭ろうという御大祭。それが、冬の大祭。ね。秋の大祭、夏の大祭、春の大祭と、こういうけれども、それぞれに、やはりその、えー、お祭りの種が、軸が違う。夏の御大祭は、皆さんも、万端ご承知でございましょうけれども、いわゆる、大祈願祭。ね。五穀豊穣、諸事繁盛の大祈願のお祭りなのです。ですから、いわば、八月の月は、もう、一つ、本気で、そういう諸事繁盛を願わないものはございません。ですから、このような思いで願いますと。そのために、ただでは願いませんと。ね。ひと修行させていただいて、ね。それこそ、一汗も、二汗もかかせて頂いて願いますという願い。それをとり仕えて、年に一回の、いうなら、願いだけのお祭りなんです。まあ、言うなら、普通一般で言うと、一番、うー、ま、親しみを持てれる、人間としてはね。
信心とは、願うこと、頼むことが、信心だとさえ思ってるくらいの人が沢山あるんですから。願いの信心ということになると、やはり、ところがですね。実際、ほんなら、あんたは何を願うかと。いうところに、言われれば、人間の欲がありますから、どうぞ、金ば、まちっとばっかり、お繰り合わせを御願いします。健康ばどうぞ御願いしますと。東京にいっとる子供のことも御願いします。アメリカにいっとる娘もどうぞというごたる風になってくるんですけれどね。うー、その、ありますけれども、ほんなら、事取り立ててですねえ。ひと修行させて頂いてです、ね。今年の祈願祭には、もう、このことを一つ、焦点に、祈って、願って、願って止まんというような、いわゆる、熱願ですよ。ね。熱願を持っての、御大祭への突入と言うことになると、果たして、何を願うかと。改めて、こう、考えてみなければならないような気がする、ね。皆さんも、そのくらいには、おかげ頂いてあると思います。今、取り立てて、もう、尻に火がつくごとして、願わんならんという事はないほどしに、おかげを受けておる。ね。
先ほどの、前講に、野口つぁんの、お話を頂きますとです。私は、あっちは、全然聞こえんのですよ。ちょっと聞こえる、えー、何か、こうしてござったような話をなさってあったようだったが、初めのところに、なにか、とにかく、もう、野口の家一家がね、いわゆる、根本的な助かりを頂いておるということ。思えば、思うほどです。ね。なるほど、様々な難儀なとこを通らせていただいた、その難儀なことの全てがね。この事を分からせて貰うことのための、であり、いわば、あー、家内、家族中は言うに及ばず、最近長男の嫁を貰うという嫁までが、えー、御道の信心にならせて頂けれる。一家を挙げての信心にならせて頂いて、これからは、もう家、野口の家が、言うならば、根本的な助かりの第一歩を、いわば、感じると。ね。だから、これから助かって行くという事は、もう限りがないおかげに成って行くわけです。まあ、そういう意味のことのようであった。一番初めにお話になっとられたのが。今日、昼にお参りになったときも、やっぱ、その事をお届けなさっておられました。もう、考えてみると、もう、ほんとに、本当に私が、もう、合楽では一番おかげの受け頭じゃろうと自分で言うておられます。こりゃ、みんな、そう言いますね。今日は、朝の御祈念のあとに波多野さんもそれを言うておられました。もう、ほんとに私は、もう、合楽で、十分おかげ頂いておると思いますと。こう言われる。もう、それが実感です。そらもう、ちょいちょいそれを言われる。第一、合楽にご縁を頂いておったという事を、思えば、思うほどもう、ほんに、神様ばかりはもう、どうして、このように、私のような者を、合楽に御神縁を作って下さっただろうかと言うて、今日は、感激して、波多野さんはお礼のお届けをしておられますもん。これは、まあ、皆さんも、同じことじゃないでしょうか。ね。合楽にご縁を頂いておったということ。これは、どこどこ教会の人は、どこどこ教会にご縁を頂いておって有難い事になりましょう。けれども、合楽にご縁を頂いておる人はです。合楽にご縁を頂いておってよかったと、皆さん、思われる方がほとんどではないかと思う。
先日から、二、三日前でしたねえ。えー、昼の、えー、後のあの、一口のご理解に、合縁奇縁という事を頂きましたね。信心は、合縁奇縁と。ね。私は、この、合縁奇縁というご理解ばっかりは、たった一口じゃけん、そらもう、そうたい、信心な、合縁奇縁とか言うもんじゃけん、他に言いようがないような感じがするんですよね。しかも、あの、合縁奇縁というのはもう、それこそ、何十回と言うて、まあ、言うならば、頂いておる御理解でもございますし、確かに合縁奇縁には、間違いないです。ね。福岡あたりから、沢山の、同じ御道の信心、金光様のご信心の教会をいくつもいくつも乗り越えて、秋永先生なんかはもう、自分方の直ぐそこに立派な大橋教会がある。久保山さんなんかは、隣に、ここの親教会の、御井教会がある。ね。北野のあたりの方たち、みんなそれが言えれる。熊谷さんでも、波多野さんでも、ほんの直ぐ側に、吉井教会がある。それを、二十年も毎日毎日、合楽、合楽、椛目、椛目と言うて、お参りをしてきた。そして、合楽にご縁を頂いたということが、もう、なんと有難いことだろうかということに、段々なってきた。ね。確かに、合縁奇縁なんです。ね。ですから、まあ、それだけの事なんですからね。不思議な縁です。やっぱり。ね。やっぱり、言うならば、あー、私の、おー、めぐりと、おー、皆さんのめぐり。私の良いものと、皆さんの良いもの。私の悪いものと、皆さんの悪いものが、なんか、一脈通じたり、感じあえる、交流するものが、何かが、やっぱあるとです。ね。そこで、結ばれたり、離れられない何物かがそこに、やっぱ、生じて来ておる訳なんです。ね。だから、それだけではね。それだけでは、私は、その、合縁奇縁ということには、御道で言うところの合縁奇縁にはならない。私は、この御理解を頂くに当たってはね。もう、大体、どういうような御理解を頂くだろうかと思うてね。えー、その、皆さんも、ご承知のように、一時の御祈念。もう、今まで全然頂いたことのない角度から、しかも、思いもつかないような表現で頂いておりますですよね。ですから、やはり、その、合縁奇縁も、やっぱ今まで頂いておったような事では、いけんと私は思うておりました。そしたら、ご心願に頂きますのがね。えー、若い方たちは、もう、全然分からんというですから。まあ、分からんけれども、分かりたいと思うたら、年寄りに聞いたら、分かるだろうから、それを、説明もしませんでした。先日、あそこで、学生会の諸君が、みんな、塗板の前にたってましてから、そん時、あの、この、おー、この御理解の意味が分かるかと。おはん長右衛門という、んー、えー、連理の何とか、連理のしがらみといいますね。お芝居の題名は。えー、いわゆる、あの、おはん長右衛門という。の、おー、お芝居のね、筋を頂くんです。そして、御理解がね、もう、本当に適切に頂くんです。そこんところは、しかし、皆さんにも、そん時に、言うわけにもいかん、塗板に書くわけにもいかん、残しておく訳にもいかんといったような感じなのですから。あー、その、説明をしませんでした。第一ね、ほんなら、おはん長右衛門というものは、こら、もう、心中ものの、おー、ものなんですよ。ねえ。えー、隣の、いわゆる、おじ様ですよね。隣の、おっちゃまと、えー、その、隣りの娘が出来合うたというお芝居なんです。ね。それも、お伊勢参りの帰り道、えー、んー、宿屋で悪いものに追われて、そして、飛び込んだのが、隣のおっちゃまの部屋じゃったち言うんです。ね。そして、あのー、子供までなすことになり、また、家庭には家庭に、色んな、あー、問題が起きましてね。もう、この世にも生きておられないという事で、まあ、桂川ですね。桂川敷きと。いわゆる、あー、その当時の、時の、長右衛門が、四十七歳。娘は十六歳。ね。何十も違う。それこそ、世間に恥じて、その、まあ、心中したわけなんです。だから、心中もののお芝居といやあ、もう、沢山ありますよね。ね。沢山有りますが、そういうケースは、まあ、珍しいわけですね。若者と、若者というのじゃなくて、お爺さんと娘といったような感じなんです。ね。ですから、それでも、やっぱり、合縁奇縁は合縁奇縁。おはん長右衛門でも、やはり合縁奇縁だとこういうのです。ね。信心の上でもです。だから、おはん長右衛門的な、あー、縁でお仕舞いになっておる人がありはしないか。ね。ただ、おかげだ、ご利益だと、言うだけで縁がそのままになっておる。ね。というような事ではいけない。ね。とりわけですね、義理にからんで、えー、合縁奇縁がですねえ、義理があるために、いー、その、難儀をしておる。例えば、信心の、おー、そこんところがですね。んー、まあ、いうならば、あー、お話をしなければ分からないところであり、しかし、それを、私も、現在の教団に打ち出すということはです。ちょっとはばからならん感じのするような、御理解なんです。ね。この頃、おー、甘木の平田会長が見えられてからの、お話の中にですねえ。やはり、教会にはね、幼稚園から、大学までなからないかんということ。ところが、子供が、高校に行こうというけれども、おー、もう、よそん高校には入っちゃでけん、というような、仕組みというかね、例えば、ほんなら、ここの教会が、あー、高校まで方の資格がないとするか。ご信者さん方の、どんどん信心が進まれて、大学に行きたい。止むに止まれず信心を求める意欲が強うなってくる。それを、例えば、合楽とのいわば、関係が有るから、いわゆる、義理人情に縛られてです。ほんならもっと、自分が意欲しておるところの信心も、身に付けられないといったような事はないだろうかということでした。ここが、だから、あの御理解の中心になるところです。もう、これで信心が行き悩んでおる人が、どのくらい世間にあるか分からんのです。手続きを重んずるという、その言葉に縛られてです。義理がある。ね。なるほど、その教会で、おかげを受けたという事実もある。あそこの教会に行きゃ、信心が分からせて貰えれる、おかげも頂けるとも思うけれどもです。義理があるから、動けないといったようなです。つまらん事で、私は、合縁奇縁に縛られているような事はなかろうかと。という様な事をね、あすこでは、大体、ま少し詳しく、うー、お話しなければならなかったとこですけれども、ただ、えー、義理に、いー、義理だけで、その自分が、もう、小学校なら小学校だけしかいけないというような人達がありはしないかと。言うような意味のことだけが、まあ、書いてございましたですね。ですから、例えばですよね、ここで言うなら、その、本当に言うならば、幼稚園から、大学に行きたいと思えば、言うならば、あー、合楽大学と思われるくらいな、難しい、ご信心のことも、教えて貰え、分らせて貰えれる教会に、ご縁を頂いておるということがです。合楽にご縁を頂いておるということが有難いと。まあ、波多野さんなどは、それを今日は、いわれたようにおもいます。ところがです。それだけの、ほんなら自分がその気になれば、あー、中学から、高校、大学にも進まれる程しの大学に縁をいただきながら、中学にも行こうと思わん、高校にも行こうと思わん。ね。ただ、小学校だけで、ただ、金光様唱えて、一心に拝むことだけは覚えておるというだけでです。以上の信心を高めようとも、進めようともしないといったような事ではね、折角、合楽にご縁を頂いておる値打ちがないということなんです。ね。やはり、ここに信心の稽古に通うてくるからには、その、:信心の稽古によってです。信心の、いわば、段階というものを追うていけれる楽しみという物が、なからなければならない。ね。そこで、私は、思わせて頂くのですけどもね。私共の、信心がね、このままではいけないという事。いま、中学の人は、高校に行きたいという願い。高校の人は大学に進みたいという願い。ね。そういう、私は、願いを持てということなんです。それは、もう、止むに止まれぬ、切実な心を持ってです。ね。信心、そういう信心を身に付けて行きたいという、私は、そういう願いをね、皆さんが、例えば、この八月の願い月に掛けられるようになられたら、素晴らしいことだと思います。ね。願い月。ね。だから、例えば、そら、どのようなことでも、信心の程度、程度に応じて願うがよろしい。願うならば、どうでも、聞き届けて頂かねばならんという、一生懸命の思い、一瞬を立てなければならん。ね。けれども、自分の信心の、その、度合い程度というものがです。ね。えー、なるほど、大学生がたあるなと。高校生だなと。なるほど、まだ、幼稚園だなと。それで良いんじゃないだろうかと。ね。けれども、そこんところの願いを、少し高度なものにね、お互いしていきたい。これは、まあ、私は、何時も言う、問題は私自身が助かることなんだ、と、申しますけれども、実際は、なかなか助からん。そこで、家内も助かって欲しい、子供も助かって欲しい、一家中のものが出来んところを足しおうて、おかげを頂けば、ね。一人で持ち上がらん石でも、大勢、掛け声を揃えればです。少しずつの力を持ち寄れば、大きい石でも、持ち上がるようなおかげが受けられると仰せられるのですから、自分の信心を待つというのではなくて、こういう願い月のときにこそです。私は、一家を挙げての、本当の野口つぁんのお話じゃないけれども、家の、いわば、根本的な助かりを、願わせてもらうということ。ね。神様が、いちっばん、願うてござることは、それだと思うのです、本当は。ね。貴方が一人、本当に根本的に助かりを得ることによってです。ね。一家中が、根本的な助かりを、頂くということ。ね。そこから、私は、全てのおかげが、あー、成就していくというおかげでないとですね、おかげが、非常にもろいことになるです。地形突きをしないままにです、ね。例えば、一人の、一軒の中に、一人の信心が、まあ、出けて、一とこだけは頑丈に、地形が出来たばってん、他の柱の建つとこはゆらゆらじゃいかんでしょうが。どの柱のところも、やっぱり、しっかり地形が出来て、その上に打ち立てられる、私は、家のおかげでなからなければならん。ね。だから、まあ、私は、思うのにですね。今だの信心もさることながら、ね。兎に角一つ、家族を挙げて、または、自分の店を挙げて、ね。自分の職場を挙げて、ね。信心の、おー、世界に、いー、おかげを頂いておるということが、有難いという事を、認識して貰えれるところの信心。
今日、今朝から、原さんが、悪いお届けを色々なさいます中にです、いま、家族中で、縁についております娘達も一緒に、朝参りをしてまいります。皆がしてまいります。ね。つい、この頃までは、子供達がね、私が、御初穂を誰と誰誰々と毎日、毎日すっと、もう、お母さん、あんた、そげなこつしてから、家のうちは立つ筈はなかじゃんのち言うてから、子供どんから、みんな注意を受けておりましたち言う。ところがですね。もう、それこそこんどは、反対に今度は、こっちのほうが、あー、そのう、心配になるぐらいに、子供達のほうが銘々にです、あんた、大丈夫のち、まあ、言いもせん、思いもなさらない。そんなことはいわっしゃらじゃったから、今日は。(笑い)けれどもね、子供達がね、そういうようにおかげを頂いて、いわば、お供えをすりゃ、お供えをしただけ、お供えのし儲けだと分からせて頂いておると言うことが有難いち言うて、今日お届けされました。ね。だからね、一家中のものがですよ。一人一人が、本当に、例えば、信心が分かって有難い、勿体ないが、お供えがするせんじゃないです。お供えをさせてもらえれば、貰えるほど、お供えのし儲けだ。そのお供えというのは、自分がしよるのじゃない証拠には、何年でも、何十年でも、こうやって続けられるのだと。例えば、言うことぐらいのところまで、一つ、分からせて頂いたらね。私は、その一家の根本的な助かりが、もう、そこにあると思うのです。これは、もう、大変なことだと私は、今朝の、原さんのお届けを聞かせて貰うて思うた。ね。ですからね、自分だけは、惜しげあしげない、お供えが出来とるけれども、家内が、子供がまたは、んーその、信心の薄いものがです。そげん参らんでん良かろもんとか、ね。この頃、例えば、学生諸君なんかは、もう、一生懸命に打ち込んでおりますと、この頃、お父さん達が、もう、あれが信心してくるるけんで、間違いなかろち言うて、安心してござる。ところが、この頃、ある、んー、ある親御さんが参って見えてからね。へっ、お父さん、子供んくせに、あげん信心するが大丈夫でしょうかち言うて、参ってきた親があった。(はっはは)そら、しらいで、大丈夫かどうか知らんですよち、私が言うた。(ふっふっふ)もう、とにかく、もう、親ん言うこつは聞かんな、その、神様、神様ち、参りよるち言うわけ。昨日は、こげな大事な用件のあったが、いいや、明日は、何とか、少年少女のなんかあるけん、そら、出けんち言うちから、とうと、私のいうこつば聞かんなその、合楽に来た。そげなこっで、先生良かでしょうかち。さあ、よかかどうか、わからんですばのち、私は言うた。(えっへへ)ほんなごて、分からん。(はははは)(一同笑い)ん、そりばってん、目先目先のことを言わずにですよ。ね。例えば、長い目で見てやるとか、ほんなら、どういうことに、ほんなら、ぼうける元が合楽に有るかという様な事を、親御さん達も、ちーっと、勉強して見入る必要がありゃしなさらんですかち、私は申しました。ね。まあだ、あーた、年端も行かん、十八か、十九くらいの、いうなら、諸君がですよ、ね。合楽、合楽と、もう、朝はもう、それこそ早うからです。お参りをしてくる。しかも、一時の御祈念にお参りしてきて、てんで、まるきり、馬鹿じゃなかじゃかちいうごとしてから、てんで、もう、はー、御祈念しよると。ほんなら、親が見たなら、ほんと、くーっとするかしれんですね、あのお姿を見るなら、やっぱ。こらもう、ほんなごて、若かなりして、金光様の先生にどもならんじゃろかと思うちょる。(あっはは)そりが、ほんなら、信心がその、手厚く出来とるとですきん。それは、もう、いよいよ有難いことになるのだけれども、揃うとらんから、そういう事にまでなってくる。ね。ですから、そら、まあ、私だって、そげん一生懸命参りよるけんで、その、大丈夫ちどん、あ、親御さんの言われる通りに、なるかならんか、そら、分からんにしてもです。ね。あれだけ、合楽に、合楽にと打ち込んでおるのだから、ね。長い目を持ってみて頂きよると、それが、決して、無駄にはならん事だけは、私が、お父さん、あー、証明致しますち、私が言うた。ね。また、本人にとっても、一生の中に、ああして、学生時代に打ち込んだということが、ほんとに、無駄ではなかった。こういうおかげの元になったということになる事だろうと、こう思います。だから、どうでもね。自分が助かっていきよる、もう、助かるということは、なかなかですからね、完璧に。ですから、助かっていきよる信心の喜びをです。自分の周囲、周辺にもです。広げて行きたいという願いです。ね。そういう異変をね、自分の周囲に作っていくことの願い。ね。そういう願いにです。私は、例えば、八月の月の願いが掛けられると。そら、他でも何でも良いですよ。金銭のお繰り合わせでも良いです。ね。
最近、北野の上野さんが夫婦で、ずーっと参ってきます。上野先生の弟です。なかなか信心しません。ところが、この頃、ちっとばっかり、どうでもこうでも、おかげを受けんならんち言うことが起きてきたもんですから。まあ、夫婦で一生懸命参ってお見えになります。ね。ところがね。ほんとにその、不思議なくらいにその事が成就していくわけなんです。ね。先日から、大変難しいことがあった。けれども、難しいことがあることは、その、難しいことを、一つ、実意丁寧に受けて、修行と思わせて貰いなさいと、私は申しておりますが、ね。段々、おかげのその、おかげが頂けるだろうというようにその、おー、ま、希望が持てれるおかげを頂いていきよる。ね。ですからね。そういう風に、どうでもこうでも、おかげを受けなければならんというとですね。その、今まで信心のなかったものでも、おー、一つ、お参りしようということになりますけれども、今日は、先ほども申しますようにね。取り立てて、特別これば願わんならん頼まんならんという事が、ない程しに、お互いが、おかげを受けておりますから、さあ、願いの月に入らせていただいても、何を願おうかというぐらいな事で、しかも、その願いに対して、拍車がかからん。迫力が出らない。ね。ですから、私共がです。いわば、私共の信心が、これではいけない。もう一段信心を高めさせて頂こうという願い。ね。そこから、自分以外の者にも、縁が繋がっていくような願い。いうならば、家の中が、根本的に助かって行けれる事の願いを立てるということだったらです。私は、お互いが、迫力が出らせんだろうかと、こう思うのです。ね。根本的な助かり、ね。家ん中で、五人の者がおって、一人が一生懸命信心して、そして、おかげを頂いたち言うのはですね。他んとが、ぐらぐらですけん、絶対これじゃ、本当のおかげには成就はしないです。ね。五人おるなら、その五人の柱がです。それこそ、原さんの話じゃないけれどもです。初めの間は、お供えしとっても、おー、例えば、心配しよった子供達がです。子供達が、銘銘がです。今度は、親が心配になる。まあ、親は喜んでござるばかりでしょうけれども、ね。それが、出来れるほどしに、信心が、一家を挙げて成長しておるということ。ね。そういうね。私は願いを、この、八月の月には、掛けられたらどうだろう。そして、八月の、おー、大祈願祭にはです。その、総仕上げのような私は、お祭りが出来れるようなおかげを頂きたいというふうに、まあ、私、願っているわけでございます。七月に引き続いての、んー、暑さ。暑さはまだ、当分続きましょう、ね。ですから、これはじっとしとっても、やはり、自然は、私共に、修行を求めておられますから、ね。それに、へこたれずに、やはり、それに向かっての、信心をさして貰い、ね。七月に鍛えた祈念力、ね。修行、またはその、祈念力を持ってです。八月の願い月に突入して、そして、折角の願いならば、もう一段と信心を高めさせて貰えれる信心。それは、とりもなおさず、一家を挙げての信心ができれる。いわゆる、家の根本的な助かりを願っての、願いであり、信心であるというような、おかげを頂いて欲しいと思うのであります。どうぞよろしう。